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25件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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1996-02-14 第136回国会 参議院 国際問題に関する調査会 第2号

私は、冷戦期の八〇年代から、中ソ国境地帯とウラジオストクのニカ所をいわば定点として同じところを何度も見るというようなフィールドワークを続けているわけであります一そのような分析的であるより実感的、体感的なものなんですが、感想を述べますと、例えば中ソ国境地帯黒河、ヘイホーという町がございます。対岸アムール州の州都ブラゴベシチェンスクというロシアの町であります。

前田哲男

1993-05-13 第126回国会 衆議院 政治改革に関する調査特別委員会 第16号

佐藤(観)議員 佐藤委員が最初に挙げられました中央公論六月号の黒河小太郎氏の文章は、委員御指摘のように「小説野党連立政権誕生す」、こういうことでございますから、あくまでこれはフィクションなのでありまして、先ほど名前をいろいろ挙げられた方の名誉のこともございますので、あくまでこれは小説であって、出版の自由は認めますけれども、そのことをひとつ大前提に申し上げさせていただきたいと思います。  

佐藤観樹

1988-05-23 第112回国会 衆議院 内閣委員会在外公館に関する小委員会 第1号

黒河内政府委員 領事移住部長黒河内でございます。  ただいま官房長より説明がございましたように、近年、海外渡航者、また、日本に入国する外国人ともに急増しており、人の国際化が大幅に進展しております。こうした新しい状況に対応して、海外に進出する邦人の活動環境を整備することは、我が国が国際社会に貢献していく上で、今後ますます重要となっていくものと思われます。  

黒河内久美

1980-11-27 第93回国会 衆議院 社会労働委員会 第10号

     二君紹介)(第六号)    二 国民健康保険における傷病手当、出      産手当実施等に関する請願外一件      (石原健太郎紹介)(第九号)    三 同(池端清一紹介)(第二六号)    四 同(佐藤誼紹介)(第二七号)    五 同(森井忠良紹介)(第二八号)    六 百歳長寿者特別手当支給に関する      請願宇野宗佑紹介)(第一〇号)    七 旧満州国黒河黒河山神

会議録情報

1980-10-14 第93回国会 衆議院 社会労働委員会 第1号

法律案内閣提  出第一七号) 同月十三日  国際障害者年に関する請願福島譲二紹介)  (第六号)  国民健康保険における傷病手当出産手当の実  施等に関する請願外一件(石原健太郎紹介)  (第九号)  同(池端清一紹介)(第二六号)  同(佐藤誼紹介)(第二七号)  同(森井忠良紹介)(第二八号)  百歳長寿者特別手当支給に関する請願宇野  宗佑紹介)(第一〇号)  旧満州国黒河黒河山神

会議録情報

1980-05-14 第91回国会 参議院 社会労働委員会 第10号

の改定に関す  る請願(第二四五五号外一九件) ○医療保険制度の大改悪反対医療制度改善に関  する請願(第二四六四号) ○年金制度改悪反対等に関する請願(第二四八  七号) ○新鮮血液の確保及び心臓病児者内科的医療費  補助に関する請願(第二五七七号外一二件) ○年金医療制度に関する請願(第二五八九号外  六件) ○結核患者公費医療全面廃止反対等に関する請  願(第二五九七号) ○旧満州黒河省等

会議録情報

1978-02-27 第84回国会 衆議院 予算委員会第一分科会 第1号

私は、昭和二十年八月十五日、当時の満州国新京で終戦を迎え、その後幾多の苦境に遭遇し、辛酸をなめながら、同年十一月三日、満ソ国境である黒竜江に仮設された鉄舟による架橋を、千五百名の将兵とともに黒河からソ連ブラゴエに渡ったのであります。その後、バイカル湖を過ぎ、ウラル山脈を越えて十一月十七日アバカン地区第三十三収容所に到着し、さらにクラスノヤルスク地区第三分所に収容されたのであります。  

瀬野栄次郎

1965-02-05 第48回国会 衆議院 商工委員会 第1号

黒河内政府委員 ただいま御指名のありました土地調整委員会黒河内であります。何とぞよろしくお願いいたします。  御指示によりまして、ただいまから土地調整委員会昭和三十九年中に行ないました所掌事務処理概要説明を申し上げたいと存じます。お手元昭和三十九年土地調整委員会事務処理概要という印刷物をお配りしてありまするので、その大要について御説明を申し上げることにいたします。  

黒河内透

1964-04-22 第46回国会 衆議院 農林水産委員会 第40号

黒河内参考人 ただいま委員長から御指名のありました黒河内でございますが、農業基本法の中核でありますところの土地改良、それに関する基本法である土地改良法の整備に関連して、国会の審議の席にお呼び出しをいただきまして、私の見解を陳述する機会をお与え下さいましたことを、非常に光栄に存じます。もともと私は浅学でありまして、今回の改正法の詳細につきましては十分に承知をいたしておりません。

黒河内透

1964-01-29 第46回国会 衆議院 商工委員会 第1号

黒河内政府委員 土地調整委員会委員長黒河内でございます。  御指示によりまして、ただいまから土地調弊委員会が三十八年中に行ないました所掌事務処理概要について御説明申し上げたいと存じます。お手元に、昭和三十八年土地調整委員会事務処理概要という印刷物をお配りいたしてありますので、その大要をかいつまんで御説明申し上げることにいたしたいと思います。  

黒河内透

1963-02-12 第43回国会 衆議院 予算委員会 第12号

そういうことで思い起こしますことは、もう三十年ばかり前に聞いた話でありますが、ソ連赤色革命が行なわれたときに、黒龍江を渡って続々と漢民族満州国に避難してきた、大黒河あたりに避難してきたときに、多年たくわえた砂金の袋を、日本人と見れば、しばらく預かってくれといって窓からほうり込んで逃げていった。

荒木萬壽夫

1956-02-08 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号

これをごらんいただきますとおわかりになると思いますけれども、北辺防衛拠点東安省でありますとか、三江省でありますとか、興安北省でありますとか、間島省牡丹江省黒河省、こういうふうな関東軍北辺防衛拠点に集中して開拓団は配置されたのであります。いっか関東軍の参謀が申しておりましたが、北満日本開拓者人がきを作ってソ連を防衛するのだ、こういことを公言いたしているのを聞いたことがございました。

吉崎千秋

1955-05-12 第22回国会 参議院 社会労働委員会 第5号

参考人浜野満雄君) 私の方の衛生研究所関係ですが、例の昭和二十八年ですか、帰国の話がありましたときに、私の同僚のうち、帰国を目前に控えまして、もう御承知と思いますけれども、例の吉林とか、それから錦州とか、あるいは普蘭店という方に分散を命ぜられて、私はその当時黒河に行くように言われたのです。これは非常に遠い所ですから、私自身非常に不安に思っておりました。

浜野満雄

1954-10-07 第19回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第16号

その大半の方は開拓団とそれから北安黒河方面におられました元関東軍の方なんでありますが、この元関東軍の若い数百名の方は全部公安局の所管になつておつたようであります。たとえばこのたびお帰りになりました西陵の皆さん、そういつた方は総政治部の籍になつておるのではないかというふうに思いますが、これは私、不完全な憶測でございますから、その点御了承願いたいと思います。

北村義夫

1950-11-30 第9回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第3号

その中の、満洲の大体日本人分布状況を簡單に申しますと、瀋陽地区奉天地区でございますが、これが約八千名、通化地区が約千六百名、間島地区が千三百名、牡丹江地区が約九百名、東安地区が二千八百名、三江地区が約三千名、龍江地区が千六百名、浜江地区が三千五百名、錦州地区が二百七十名、その他熱河地区に四百名、安東地区で三千名、黒河地区に五十名、吉林地区の三千名、興安地区の千六百名、北安地区の千名、旅順、大連地区

上島善一

1950-10-31 第8回国会 衆議院 海外同胞引揚に関する特別委員会 第11号

それから間島地区が約千三百名、牡丹江地区が約千九百名、東安地区が約二千八百名、三河地区が約三千名ないし四千七百名、龍江地区が約午六百名、浜江地区が約三千五百名、錦州地区が約二百七十名、熱河地区が約四百名、安東地区が約三千名、黒河地区が五十名、吉林地区が三千名、興安地区が千六百名、北安地区が千名、族順大連地区が約千二百名、こういうことになつております。

長岡敏夫

1950-10-31 第8回国会 衆議院 海外同胞引揚に関する特別委員会 第11号

これは二十三年の三月逆送されたということを証言されましたが、私の方ではこの点につきましては、実は黒河方面を通じ逆送された事実は、二十一年の春約二梯団で二千名ないし三千名くらいソ連から明らかに入つたという証言も私の方ではとつております。その四万については私の方では現在のところ握つておりません、と同時に二十三年三月に入つて、先ほど鶴岡炭鉱の方に行かれたという証言をしておられます。

長岡敏夫

1950-04-28 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第21号

一名は場所は忘れましたが、武本、それから尚黒河方面で警察官をやつておりました小林という者が死んだということを言つております。これらから見まして、他の地区囚人病院にも刑を受けて入院したところの日本人が死亡しておるのではないかというようなことを深く考えたのであります。    

湧澤忠雄

1950-04-06 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第20号

そして黒河に着き、さらにそこから五日間を経て黒河の埠頭に着きました。十月の三十日の夜の八時ごろその河を渡つたのであります。そうしてわれわれは対岸ブラゴエチエンスクに着いたのであります。そこの滞在が約三日間であります。われわれが出発したときにはアムールは結氷をいたしました。後続部隊はその氷の上を渡つて来たということであります。われわれは船で渡りした。

宇野喬夫

1950-02-06 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第10号

八月一日応召になりまして、果て終戦を迎えまして、九月一日捕虜として新京集成十四大隊と、いうものを千名編成いたしまして、ハルピン北安黒河、ブラゴエを超えて入ソいたしました。当時私は建国大学に教鞭をとります前に、ハルピン学院におりました。ハルピン学院の教授をいたしておりました。若干ロシア語を心得ておりましたので、自然ロシア語の通訳として終戰当時から入ソ後まで、暫くの期間しておりました。

尾ノ上正男

1950-02-06 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第10号

これは私か九月の末に黒河に着きましたときに、彼は一日遅れて黒河に入りました。我我黒河に確か三泊いたしと思いますが、三泊いたして私が立ちますまで彼も黒河におりました。これは黒河から私達と同じようにブラゴェを越えて入ソしたものだと思つておりました。又事実これは入ソをして一昨年か帰つておると申しております。

尾ノ上正男

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