1996-02-14 第136回国会 参議院 国際問題に関する調査会 第2号
私は、冷戦期の八〇年代から、中ソ国境地帯とウラジオストクのニカ所をいわば定点として同じところを何度も見るというようなフィールドワークを続けているわけであります一そのような分析的であるより実感的、体感的なものなんですが、感想を述べますと、例えば中ソ国境地帯に黒河、ヘイホーという町がございます。対岸がアムール州の州都ブラゴベシチェンスクというロシアの町であります。
私は、冷戦期の八〇年代から、中ソ国境地帯とウラジオストクのニカ所をいわば定点として同じところを何度も見るというようなフィールドワークを続けているわけであります一そのような分析的であるより実感的、体感的なものなんですが、感想を述べますと、例えば中ソ国境地帯に黒河、ヘイホーという町がございます。対岸がアムール州の州都ブラゴベシチェンスクというロシアの町であります。
○佐藤(観)議員 佐藤委員が最初に挙げられました中央公論六月号の黒河小太郎氏の文章は、委員御指摘のように「小説野党連立政権誕生す」、こういうことでございますから、あくまでこれはフィクションなのでありまして、先ほど名前をいろいろ挙げられた方の名誉のこともございますので、あくまでこれは小説であって、出版の自由は認めますけれども、そのことをひとつ大前提に申し上げさせていただきたいと思います。
○黒河内政府委員 領事移住部長の黒河内でございます。 ただいま官房長より説明がございましたように、近年、海外渡航者、また、日本に入国する外国人ともに急増しており、人の国際化が大幅に進展しております。こうした新しい状況に対応して、海外に進出する邦人の活動環境を整備することは、我が国が国際社会に貢献していく上で、今後ますます重要となっていくものと思われます。
外務省に関して申し上げますと、事故が起きた後、直ちに領事移住部長、黒河内でございますが、を団長とする対策本部を外務省のオペレーションルームに設けました。上海には上海総領事館がございますが、そこでは吉田総領事をキャップにします現地対策本部を設ける。
二君紹介)(第六号) 二 国民健康保険における傷病手当、出 産手当の実施等に関する請願外一件 (石原健太郎君紹介)(第九号) 三 同(池端清一君紹介)(第二六号) 四 同(佐藤誼君紹介)(第二七号) 五 同(森井忠良君紹介)(第二八号) 六 百歳長寿者に特別手当支給に関する 請願(宇野宗佑君紹介)(第一〇号) 七 旧満州国黒河省黒河山神府
法律案(内閣提 出第一七号) 同月十三日 国際障害者年に関する請願(福島譲二君紹介) (第六号) 国民健康保険における傷病手当、出産手当の実 施等に関する請願外一件(石原健太郎君紹介) (第九号) 同(池端清一君紹介)(第二六号) 同(佐藤誼君紹介)(第二七号) 同(森井忠良君紹介)(第二八号) 百歳長寿者に特別手当支給に関する請願(宇野 宗佑君紹介)(第一〇号) 旧満州国黒河省黒河山神府
の改定に関す る請願(第二四五五号外一九件) ○医療保険制度の大改悪反対・医療制度改善に関 する請願(第二四六四号) ○年金制度の改悪反対等に関する請願(第二四八 七号) ○新鮮血液の確保及び心臓病児者の内科的医療費 補助に関する請願(第二五七七号外一二件) ○年金・医療制度に関する請願(第二五八九号外 六件) ○結核患者の公費医療全面廃止反対等に関する請 願(第二五九七号) ○旧満州黒河省等
私は、昭和二十年八月十五日、当時の満州国新京で終戦を迎え、その後幾多の苦境に遭遇し、辛酸をなめながら、同年十一月三日、満ソ国境である黒竜江に仮設された鉄舟による架橋を、千五百名の将兵とともに黒河からソ連のブラゴエに渡ったのであります。その後、バイカル湖を過ぎ、ウラル山脈を越えて十一月十七日アバカン地区第三十三収容所に到着し、さらにクラスノヤルスク地区第三分所に収容されたのであります。
○黒河内政府委員 ただいま御指名のありました土地調整委員会の黒河内であります。何とぞよろしくお願いいたします。 御指示によりまして、ただいまから土地調整委員会が昭和三十九年中に行ないました所掌事務の処理の概要の説明を申し上げたいと存じます。お手元に昭和三十九年土地調整委員会事務処理概要という印刷物をお配りしてありまするので、その大要について御説明を申し上げることにいたします。
○黒河内参考人 ただいま委員長から御指名のありました黒河内でございますが、農業基本法の中核でありますところの土地改良、それに関する基本法である土地改良法の整備に関連して、国会の審議の席にお呼び出しをいただきまして、私の見解を陳述する機会をお与え下さいましたことを、非常に光栄に存じます。もともと私は浅学でありまして、今回の改正法の詳細につきましては十分に承知をいたしておりません。
○黒河内政府委員 土地調整委員会の委員長黒河内でございます。 御指示によりまして、ただいまから土地調弊委員会が三十八年中に行ないました所掌事務の処理の概要について御説明申し上げたいと存じます。お手元に、昭和三十八年土地調整委員会事務処理概要という印刷物をお配りいたしてありますので、その大要をかいつまんで御説明申し上げることにいたしたいと思います。
そういうことで思い起こしますことは、もう三十年ばかり前に聞いた話でありますが、ソ連で赤色革命が行なわれたときに、黒龍江を渡って続々と漢民族が満州国に避難してきた、大黒河あたりに避難してきたときに、多年たくわえた砂金の袋を、日本人と見れば、しばらく預かってくれといって窓からほうり込んで逃げていった。
これをごらんいただきますとおわかりになると思いますけれども、北辺の防衛拠点、東安省でありますとか、三江省でありますとか、興安北省でありますとか、間島省、牡丹江省、黒河省、こういうふうな関東軍の北辺の防衛拠点に集中して開拓団は配置されたのであります。いっか関東軍の参謀が申しておりましたが、北満に日本の開拓者の人がきを作ってソ連を防衛するのだ、こういことを公言いたしているのを聞いたことがございました。
○参考人(浜野満雄君) 私の方の衛生研究所関係ですが、例の昭和二十八年ですか、帰国の話がありましたときに、私の同僚のうち、帰国を目前に控えまして、もう御承知と思いますけれども、例の吉林とか、それから錦州とか、あるいは普蘭店という方に分散を命ぜられて、私はその当時黒河に行くように言われたのです。これは非常に遠い所ですから、私自身非常に不安に思っておりました。
その大半の方は開拓団とそれから北安、黒河方面におられました元関東軍の方なんでありますが、この元関東軍の若い数百名の方は全部公安局の所管になつておつたようであります。たとえばこのたびお帰りになりました西陵の皆さん、そういつた方は総政治部の籍になつておるのではないかというふうに思いますが、これは私、不完全な憶測でございますから、その点御了承願いたいと思います。
その中の、満洲の大体日本人分布の状況を簡單に申しますと、瀋陽地区、奉天地区でございますが、これが約八千名、通化地区が約千六百名、間島地区が千三百名、牡丹江地区が約九百名、東安地区が二千八百名、三江地区が約三千名、龍江地区が千六百名、浜江地区が三千五百名、錦州地区が二百七十名、その他熱河地区に四百名、安東地区で三千名、黒河地区に五十名、吉林地区の三千名、興安地区の千六百名、北安地区の千名、旅順、大連地区
○松井参考人 ただいま申し上げたように逆送された軍人、これが黒河を経まして、一部逃走して、ぼくらの政府の中に入つて来た者があるのであります。その人らに聞いた数でありますから、四万というのは、これはその本人から直接聞いておつて承知したような次第であります。
それから間島地区が約千三百名、牡丹江地区が約千九百名、東安地区が約二千八百名、三河地区が約三千名ないし四千七百名、龍江地区が約午六百名、浜江地区が約三千五百名、錦州地区が約二百七十名、熱河地区が約四百名、安東地区が約三千名、黒河地区が五十名、吉林地区が三千名、興安地区が千六百名、北安地区が千名、族順、大連地区が約千二百名、こういうことになつております。
これは二十三年の三月逆送されたということを証言されましたが、私の方ではこの点につきましては、実は黒河方面を通じ逆送された事実は、二十一年の春約二梯団で二千名ないし三千名くらいソ連から明らかに入つたという証言も私の方ではとつております。その四万については私の方では現在のところ握つておりません、と同時に二十三年三月に入つて、先ほど鶴岡炭鉱の方に行かれたという証言をしておられます。
一名は場所は忘れましたが、武本、それから尚黒河方面で警察官をやつておりました小林という者が死んだということを言つております。これらから見まして、他の地区の囚人病院にも刑を受けて入院したところの日本人が死亡しておるのではないかというようなことを深く考えたのであります。
そして黒河に着き、さらにそこから五日間を経て黒河の埠頭に着きました。十月の三十日の夜の八時ごろその河を渡つたのであります。そうしてわれわれは対岸のブラゴエチエンスクに着いたのであります。そこの滞在が約三日間であります。われわれが出発したときにはアムールは結氷をいたしました。後続部隊はその氷の上を渡つて来たということであります。われわれは船で渡りした。
八月一日応召になりまして、果て終戦を迎えまして、九月一日捕虜として新京集成十四大隊と、いうものを千名編成いたしまして、ハルピン、北安、黒河、ブラゴエを超えて入ソいたしました。当時私は建国大学に教鞭をとります前に、ハルピン学院におりました。ハルピン学院の教授をいたしておりました。若干ロシア語を心得ておりましたので、自然ロシア語の通訳として終戰当時から入ソ後まで、暫くの期間しておりました。
自分は第八国境守備隊黒河八四部隊に入隊しました。この黒河八四部隊は四十五年の七月に国境を撤退し、ここに装置しておりましたところの武装、それから兵器、弾薬、これを後方に下げまして、第二戰、つまり都市防衛という名目の下にチチハルまで行軍で下りました。
これは私か九月の末に黒河に着きましたときに、彼は一日遅れて黒河に入りました。我我は黒河に確か三泊いたしと思いますが、三泊いたして私が立ちますまで彼も黒河におりました。これは黒河から私達と同じようにブラゴェを越えて入ソしたものだと思つておりました。又事実これは入ソをして一昨年か帰つておると申しております。